獲得形質は遺伝するのでしょうか?
つまり、生まれた後に獲得した能力や身体的な変化は、遺伝子には反映されず、子孫に受け継がれることはありません。遺伝情報は不可逆である──これが、従来の生物学・遺伝学における「常識」であり、「セントラルドグマ」として知られる不可侵の教義でした。
セントラルドグマは「獲得形質の非遺伝」を直接的に定義しているわけではなく、主に遺伝情報の転写・翻訳の方向性を示す理論ですが、この「ドグマ」に反し、かつてソ連などの旧共産圏では「獲得形質は遺伝する」という学説が広まりました。
これはルイセンコ論争として知られており、その影響で農業政策が歪められ、政治的抑圧、集団農場化、天候不順などが相まって大飢饉を招く結果となり、悲惨な飢餓を引き起こしました。こうした背景から、獲得形質は「絶対に」遺伝しないとする主張も、反共産主義的な立場からイデオロギー的に強く主張されることがあったのです。
しかし、これまであまりにもダーウィン的な進化論が頑なな教義とされてきたことへの「反省」から、揺り戻しのような動きも見られるようになってきました。こうした立場は、「ネオ・ラマルキズム」や「エピジェネティクス(epigenetics)」と呼ばれています。
これらの立場は、あくまで「後天的な獲得形質は遺伝しない」という原則を踏まえつつも、「遺伝子は後天的に修飾されることがある」という考え方に基づき、従来の不可逆的な教義に部分的な修正を加えるものです。
たとえば、一卵性双生児はまったく同じ遺伝子を持っているはずですが、それぞれの個人で表現型に微妙な違いが見られることがあります。これは、親の世代で使用されなかった機能に関わる遺伝子に修飾が加えられ、それが子の世代に受け継がれる場合があるためです。
ただ、エピジェネティクスで観察されるのは「部分的で可逆的な遺伝子発現変化」であり、ほとんどは数世代以内に消失します。また、一卵性双生児の表現型のほとんどの差異は、胎児発生や生活史の中での環境差が原因となります。
この「修飾」は多くの場合、分子レベルでは主に2つの仕組みによって説明されます。ひとつはDNAのメチル化(あるいは脱メチル化)によって、DNAの一部に化学的な変化が加えられること。もうひとつは、ヒストンと呼ばれるタンパク質への化学的な修飾です。
ヒストンとは、約1.8メートルにもなる長大なDNAを巻き取り、各細胞の核内に格納するためのタンパク質です。図のように糸巻き状の構造をしており、ヒストンの化学的修飾については、アメリカの研究者チャールズ・デビッド・アリス(Charles David Allis)氏らによって明らかにされました(*1)。ヒストンに付箋のような目印が後天的に付けられ、それが個体の機能に反映し、さらには子孫にまで伝えられる、というわけです。
恐怖体験はエピジェネティクス的に伝わるのでしょうか?
前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「恐怖体験は遺伝するのか?」という問題です。世の中は「重力波」の発見で盛り上がっていますが、こちらは静かに考察を進めていきたいと思います。
ネズミがネコを怖がるのは、ネコの臭いが嗅覚センサーを経て脳の扁桃体に伝わり、すくみ反応や回避行動につながるからです。一度もネコを見たことがなく、襲われた経験もない子ネズミであっても、ネコの臭いをかいだ途端に恐怖反応を示します。
では、このような反応はなぜネズミに備わったのでしょうか。そして、どのようにして遺伝子に残されるようになったのでしょうか。
このような疑問について、古今東西でさまざまな研究が行われてきました。
たとえば、オスのマウスにある臭いをかがせ、同時に電気ショックを与えることで恐怖体験を記憶させるという実験があります(*2)。これはアメリカのエモリー大学の研究者によるもので、この恐怖体験をさせたオスマウスの子どもに、同じ臭いをかがせて反応を観察しました。
子どもたちは人工授精によって生まれており、父親からの「文化的」影響はまったく受けていません。それでも同じ臭いに対して、親と同様の反応を示しました。
さらに、孫の世代にまで同じ反応が「遺伝」していたのです。また、親のオスマウスでは、嗅覚と恐怖体験をつなぐ神経細胞が何倍にも増えていたとのことです。後天的な経験がDNAやヒストンを修飾し、それが神経細胞の増加につながった可能性が考えられます。
ただ、このメカニズムはまだ完全に解明されていません。ヒトへの一般化は未確立でり、結果の再現性や世代数の持続性については議論が続いています。
ところで、広場恐怖症や先端恐怖症、高所恐怖症など、さまざまな恐怖症を持つ人がいます。動物に対する恐怖としては、「ヘビ恐怖症(Ophidiophobia)」、「ニワトリ恐怖症(Alektorophobia)」、クモを怖がる「クモ恐怖症(Arachnophobia)」などが知られています。
こうした恐怖症もまた、恐怖を与える動物との接触経験が、祖先の記憶として遺伝子に何らかの影響を与え、進化的適応(自然選択)と学習の組み合わせによって子孫や人類全体に伝えられてきたものなのでしょうか。
クモは意外と危険な生物です
クモ恐怖症について述べるなら、クモは私たちが思っているほど安全な動物ではありません。
たとえば、海外邦人医療基金のニュースレター「続・話題の感染症16『毒をもった身近な生物(1)クモとクモ毒』」によれば、クモに咬まれることによる中毒症は「クモ刺咬症(Araneism, Araneidism)」と呼ばれています。
多くの場合、症状は軽度ですが、イトグモ刺咬症(Loxoscelism)では、南米チリにおいて1873年から1975年の間に63人が死亡したという報告もあります。こうした危険な経験が、祖先の記憶として残り、現代のクモ恐怖症に結びついているのかもしれません。
もちろん、これらの研究によって、「獲得形質はDNAそのものに影響を与えない」というドグマが完全に覆されたわけではありません。
しかしながら、遺伝子の研究成果が、いわゆる「進化論」と必ずしも一致しないこともあり得るのです。
個体の経験が子孫に伝わるという可能性は、これまで過小評価されてきました。後天的に遺伝子を修飾するというエピジェネティクスの考え方は、すでにiPS細胞を活用した再生医療や創薬、遺伝病の解明などに利用されており、確立された学問分野になっています。
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1)Strahl, BD and Allis, CD (2000), "The language of covalent histone modifications.", Nature 403, 41-45, 2000
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2)Brian G Dias & Kerry J Ressler, "Parental olfactory experience influences behavior and neural structure in subsequent generations", Nature Neuroscience 17, 89-96, 2014
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